毒親から変わる

はじめに

このページは、PaToCaを通して「毒親から変わりたい」と願う人が、毒親から「変わる」とはどういうことなのか、どうすれば「変わる」ことができるのか、なにをもって「変わった」と言えるのかといったことについて知るためのページです。

関連情報

PaToCaは、モラハラ・DV加害者のためのコミュニティGADHAから派生しています。加害とは何か、ケアとは何かといった理論の中心的な概念はGADHAのサイトでも詳細が記述されています。ぜひGADHAの理論ページもご覧ください。また、「よくある質問」や関連する書籍などはPaToCaの理論ページから見られますのでぜひそちらもご覧ください。

変わるとは何か

「毒親」という言葉を置いておいて、そもそも人が変わるとはどういうことか、ということから始めたいと思います。

このページを読んでいる方は、人は変わると思いますか? それとも人は変わらない、変われないと思いますか? 僕は、人は学び変わることができると思っています。

例えば、水たまりで滑って転んだ人は、転んで痛かったので、次から水たまりで滑らないように気をつけるかもしれません。

例えば、風邪をひいて辛い時に蜂蜜をかけたレモンを食べたら元気になった気がして、それ以来体調が悪い時にはそれを食べる習慣を身につけるかもしれません。

このようなレベルにおいて、人は「ある環境における経験から」「嫌なことが起こるとわかったことを減らしたり」「良いことが起きるとわかったことを増やしたり」する生き物です。

もう少し別のバリエーションを出してみます。

例えば、初対面の時にいきなりモノボケをしてみたら、誰も笑いません。でも、会うたびに続けていたら、だんだん「この人はこういう人なんだな」と思って、笑ってもらえるようになる。

例えば、人に悩み相談ばかりしていたら友達がいなくなってしまいました。それからは、人の悩みも聞くようにしてから自分の話をすると聞いてもらえるようになり、友人関係が続くようになりました。

このようなレベルにおいて、人は「自分の言動を続けたり」、あるいは「変えたり」することで、「関係性や環境を変える」ことで、自分の言動の「評価や位置づけ」を変えています。

このようなレベルにおいても、人は学び変わることができる、と考えたいと思います。

人は学び変わることができるか、というとき、このような変化は可能だし、実際多くの人が、特に「変わるぞ」と意気込むことなく、行っています。

言動と信念の関係

一方で、少なくない人が「そういうのはまあわかるけど、性格とか、価値観というのは変わらないのではないか」と考えるかもしれません。

さらには「仮に言動が変わったとしても、その内側はわからない。人はそう簡単には変わらないし、演じているだけではないか」と疑うことも可能です。

僕は、この問いに対して2つのことを述べたいと思います。1つは「究極的には人の心は誰にもわからない。自分自身さえわからない。だから、人は人の心を、言動を通して、想像している」ということ。

もう1つは「信念(何が世界の基本的なルールだと考えるか、人間とは基本的にどのような存在だと考えるか)は、経験によって作られるため、経験が変われば、変わる」というものです。

1つ目はシンプルだと思います。僕たちが人の性格だとか、価値観だとか、人格だとか呼んでいるものは、結局その人の言動から想像しているだけだということです。

例えば、ペット禁止のマンションでペットを飼っている人に「それは無責任、飼い主として失格、最低です」とすごく怒っている人がいたら「怖いな」「キツイ性格だな」と思うかもしれません。言動からそう考えています。

しかし、実はその人がもともと愛犬家で、仕事の都合でどうしても引っ越さざるを得ず、10年以上共に生きてきた愛犬を知り合いに頼み込んでお願いしていた、とわかったらどうでしょうか。また違った印象を持つと思います。

そのような意味で、人が変わるかどうかを考える時に、「言動は変えられても性格は変えられない」といった考え方を採用する必要はないのではないか、と思います(もちろん、言動が変わっても、あの人はきっと変わってない…と疑い続けることは可能だし、関わってきた経緯によっては自然なことでもあります)。

2つ目についても考えてみます。それは「信念は経験によって作られるため、経験が変われば、信念も変わる」という考え方です。信念とも性格とも読み替えてもらって構いません。

まず、典型的なものを取り上げます。「保険なんて入っても仕方ない、死ぬ時は死ぬ時だよ」といつも言っていた人が、事故に遭って入院しました。保険に入っていないので出費が嵩み、それからは「人生何があるかわからないから、予防するためにお金使った方が人生安心だなあ」と考えるようになり、家電を買ったり、海外旅行に行く時も、必ず保険に入るようになりました。

これは、信念や性格が変わったと言ってもある程度「確かに」と思う方が多いのではないでしょうか。なぜなら、起きた現象に対してだけ反応しているのではなく、関連する、似た、さまざまな状況に対しても、一貫した変化が生じているからです(きっと、ペットを飼ったらペット保険にも入るでしょう)。

たとえば、子どもに対しては我慢してケアする親らしく振る舞っても、例えば友人や、その子以外の兄弟に対してこれまで通りの振る舞いをしていたりすると「やはり変わっていないな」と評価されてしまうことはよくあるでしょう。毒親が変わったとみなされる時、それは個人対個人の関係にとどまらず、その人が社会に関わるさまざまな人間関係で変わった時なのです。

あるいは、子どもの頃からスポーツが得意でアスリートとして活躍してきた人が、これまでずっと「生活保護とか福祉とかそういうのは弱肉強食の世界には存在しない」と言っていたのに、ある日怪我をして現役を引退、それからアルコールに耽溺するようになり依存症に。仕事もうまく得られずホームレス状態にもなりました。全く利益の出ないボランティアをしている人たちに助けられているうちに、自分の考え方は世界の一部しか理解・説明できないものだったのではないかと思い至りました。それから一念発起し、アスリートのセカンドキャリアに関わる仕事をするようになり、自分と似た人の人生を勇気づけることを生業とするようになりました。

このような場合も、人は「変わったなあ」と思うでしょう。思わない方もいるでしょうが、変わったと思う人もいると思います。変わったかどうかというのは「何をもって変わったとするか」によって判断が異なると言えるかもしれません。

しかし、さまざまな意味での「変わる」ということを考えてみると、人は想像以上に変わるし、変わってしまうということは言えると思います。

毒親は変われるか

さて、本題に戻りたいと思います。では「毒親」は変われるのでしょうか。具体的にどうなったら変わったと言えるのでしょうか。

まずわかるのは「毒親がするとされている言動」をやめて「毒親がしないとされている言動」をする、という言動のレベルです。ある状況において、毒親はAと振る舞い、ケアする親はBと振る舞うという場面がある時に、Aをやめて、やめるだけではなくBを行う、ということです。

そしてそれを1度、ある状況で行うだけでなく、異なる状況XにおいてもYにおいてもZにおいても、同時並行としての振る舞いAではなく、ケアする親の振る舞いBを選択し続けていくことによって、「変わった」と信じられる可能性があります。

実際、DV加害者のチェックリスト(ランディ・バンクロフトのリストを僕が修正したもの)を見てみると「これに全部チェックがつくような人が、全部外れることなんて、到底想像できない」と思う人が多いと思います。それはもう別人だ、と。

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しかし、実際にはこのすべてにチェックがついていた人が、全てのチェックが外れるということもあります。そして、それは本人の評価ではもちろんなく、被害者パートナーによる評価で、という意味です。

僕は、そのような意味で、人は変われると確信しています。全員ではないのかもしれないし、任意の望むタイミングではないのかもしれないけれども、人は学び変わることができると信じています。

ここで被害者パートナーによる評価で、というのが大事だと思った方も多いと思います。一体誰が誰かを「毒親」とか「そうじゃない」と判断できるのかという問題です。

そもそも、誰かを毒親と認定するのは、基本的にはその人に養育された子どもであって、他の人が「あなたは毒親だよね」とか「もう毒親じゃないね」という判断を下すことは、あまり意味がないかもしれません。

「毒親は変われない」という言葉の意味

毒親という言葉を受けたりみつけたりした時、「毒親はヤバい人」「生まれついてのモンスター」「どうせ変わらないから、関わるだけ、期待するだけ無駄」といった表現と共に語られることが少なくありません。

しかし、上記のように考えてみると「変わらない・変われない」というのは言い過ぎであるように思います。人は、むしろ変わり続けているものであり、きっかけやタイミング次第で変わっていく、変わってしまうことはよくあるからです。

「毒親は変われない」という言葉は、どこから来るのでしょうか。それは、「変わってほしいと心から願ったけれども、変わってもらえなかった子どもたち」の悲痛な叫びであり、痛みの表現であり、苦しみ、怒りのメッセージだと僕は思います。

ですから「毒親は変われないというのはおかしい、そういう風に言う人の方が性格が悪いし、間違っている」などとは決して言えません。その人がそう考え、言葉を発する背景にある痛みや傷つきを想像すれば、それは自然なことだからです。

実際、「変わりたい」と願う毒親としてPaToCaに集まってきた人でさえ「毒親は変われない」と思ってしまうことがあります。それは結果的には自分も変われないと言っているようなものであり、いかに「親が、自分のために学び変わってくれなかった」という経験が深く深く子どもを傷つけ、その子どもの生きづらさに影響するのかがよく分かります。

しかも多くの場合、「毒親」とされる人たちは「人は変われない」と言う認知を持っています。言うまでもなく、その人たちもまた、人に学び変わってもらった経験が少ないからです。毒親というか、その「ケアの欠如した人間関係、学び直さない関係」は連鎖してしまいます。

しかし、連鎖するからといって、それを止められないわけでは決してありません。そして何よりも、だからこそ、「毒親の変容」には本質的にとても重要な意味があります。

毒親の変容に必要なことは「何が加害で、何がケアかという知識」と「試行錯誤する中で、愚痴をこぼしたり、変容を喜びあえる関係性」です。

続いて

毒親が学び変わっていくことと、幸福について考えたいと思います。こちらからご覧ください。

終わりに

PaToCaは「変わりたい」と願う毒親のための学びのコミュニティです。毒親であることを認め、学び変わることは大変なことです。知識だけではなく、愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたりする仲間が必要です。

ぜひ、PaToCaの理論ページを参考に学びを深めながら、PaToCaの活動ページにあるコミュニティやイベントに参加することで、変容を共に進めていきましょう。